市原市役所を挟んで上総国分寺と上総国分尼寺跡

小湊鉄道の上総村上駅より市原市役所の
白い建物を目標にして歩くと、
約1キロの距離に上総国分寺跡があり、
ここから市原市役所の横を抜けて,
約0.9キロで上総国分尼寺の展示館に着きます。

展示館では、出土した遺物の展示と
「よみがえる天平の(いらか)」という
映画を上映していただけるので是非ご覧になって下さい。


     国分寺・国分尼寺の建立には 仏教 律令国家 の二つの要素が深い関わりをもっています。

仏教の伝来
仏教は今から2500年ほど前に、インドとネパールの国境あたりにシャカ族の王子として生まれたゴータマ・シッダッタ(ゴータマ・シッダールタ)が
正しい悟りを開き、人々をさまざまな苦しみから救おうと広めた教えです。
日本へは6世紀の前半に朝鮮半島から伝えられ、7世紀にはそれまでの国内の信仰と共存し、
渡来人や支配層の間で急速に受け入れられ、寺も建てられるようになりました。

日本に伝来した当時の仏教は、災いを除いて福をもたらすといった現世利益や、祖先の冥福を祈るという呪術的性格をもっていました。
特に7世紀後半には、国家による寺院と僧尼に対する管理統制や仏教の力で国を守るという考えが強まります。

仏教は、それまで日本にはない極彩色に塗られた大陸風の瓦葺き建物や、仏像・仏具に代表される高度な造形文化をもたらし、
当時の支配者層を強く引きつけました。

6世紀の終り頃、蘇我馬子は朝鮮半島から渡来した技術者の指導で、最初の本格的な寺院である飛鳥寺を建立しました。
仏教は寺造りの技術だけでなく医学や音楽・芸能に至る、あらゆる学問芸術分野にまたがった総合文化として伝来し、
その担い手である渡来僧や留学僧は当時の新知識として歓迎されました。

律令国家の地方支配
7世紀初め中国大陸に強大な唐帝国が出現すると、周辺の諸民族もその影響を強く受けて広域的な統一国家の形成に向かいました。
日本列島でも豪族がそれぞれの領域を個別に支配していた体制を改め、7世紀の終り頃には天皇を頂点とする官僚機構が整えられ、
全国を統一的な方式で直接支配する中央集権的な古代律令国家が確立しました。

645年の大化の改新で、唐の律令にならった新しい政治の方針がしめされ、
701年の大宝律令の制定によって、天皇を頂点とする律令国家が成立しました。
政治の仕組みは中央に二官八省の役所をおき、 中央には都城(とじょう)(みやこ)が建設され、
地方は国・郡・里に分けられ、中央から派遣された国司が治めたが、
かっての地方豪族は、郡司(ぐんじ)里長(さとおさ)などに任命され、地方支配の末端を担いました。
又、班田収授の法をしいて人々に口分田を与え、租・庸・調の税や雑徭(労役)を課し、公民男子には兵役の義務をおわせた。


房総半島はかって「ふさ」と呼ばれ、河川の流域などを単位に豪族が支配していたが、
7世紀後半に国制が引かれると、京都に近い中央から
南に上総の国が、その北に下総の国が置かれ、8世紀中ごろに上総の国から分離し、安房の国(あわのくに)が出来ました。
上総の国の要の位置にあたる市原郡に国府が置かれ、のちに国分寺が建立される前提となりました。

凶作・飢饉や疫病・政争などが頻発する
天平時代は律令制度が整ってから半世紀近くがたち、それまでに蓄積された富と経験を背景にして大規模な造営事業が起こされ、
正倉院宝物殿に代表されるような国際色豊かな貴族文化が花開きました。
しかし、天平初年には異常現象が続き、凶作・飢饉や疫病が流行し、人々は不安と苦悩を募らせました。
特に、天平7年に九州から広まった天然痘は、3年間にわたって猛威を振るい、
天平9年には政権の中枢を占めていた藤原氏の四兄弟などの命を奪い、政界の勢力地図を塗り替えてしまいました。

国家仏教の頂点・東大寺大仏と国分寺
国分寺の建立はこうした天平初年以来の社会不安や内外の政治的緊張を仏教の力でしずめ、人々の心を一つにまとめようとしたものです。
それはまた、7世紀後半以来進めてきた国家仏教政策の総決算でもありました。

聖武天皇(しょうむてんのう)光明皇后(こうみょうこうごう)は仏教への熱い信仰心がありました。
特に僧寺と共に尼寺を建てたことは、女性である光明皇后の強い意向が感じられます。
天平13年2月14日「国分寺建立の(みことのり)」が発せられ、金光明最勝王経(こんこうみょうさいじょうおおきょう)と法華経の教えに基づく
僧寺と尼寺を国ごとに置くことが命じられました。




どうして上総と下総が逆なのか?

当時は都を出て、上総の国に入るのに東京湾を船で渡るのが本道でした。
古事記に「相模から海を渡り、上総の国に入った」とあります。
浦賀あたりから富津岬の辺りに水路で上陸してきました。

下総の国に行くには、上総の国を通って北上しました。
今のように東京を経由して、市原市に来ていたならば、
この地名は逆になったかもしれません。


上総国分尼寺は戦後40年間にわたる発掘調査により、付属施設を含めその全容が明らかになりました。

市原市役所の裏手の根田(ねだ)衹園原(ぎおんばら)と呼ばれた地区(今は国分寺中央)の畑の中は、
上総国分寺(僧寺)と同じ瓦が出土していて、古くから上総国分尼寺跡ではないかとみられていました。
古くは昭和23年の確認調査で、本格的には昭和40年代中頃の、千葉県と早稲田大学による合同調査で、
この遺跡が上総国分尼寺跡であることが学会で承認されました。

昭和48年からの調査では、寺域が通説の4倍以上の広域であった事と寺院の活動を支えていた付属施設が初めて明らかになり、
又、「法花寺」と書かれた墨書土器が多数出土し、建築物だけでなく、文字資料のうえでも国分尼寺跡である事が実証されました。

 
 
寺名を墨書した土器
  
法花とは、「真理の花たば」という意味

 国分尼寺は、女性のさとりを説く妙法蓮華経(法華経)にちなみ
 「法華滅罪之寺」と名づけられ、法花寺はその略称です。

昭和58年に伽藍(がらん)中心部が、61年に政所院(まんどころいん)跡が、国の史跡に指定され、
昭和63年以降の調査で、主要伽藍の配置・規模・構造の詳細が判明しました。

こうして40年の長期にわたる調査と、これに携わった多くの人の努力で全国でも始めての国分尼寺の全体像が解明されました。

上総国分尼寺跡の展示館にある「上総国分尼寺」の全景の模型です。
尼寺は寺域が広く全国最大規模で、南北は約372メートル、東西が350メートル前後で
面積は12万3,000平方メートルの広さを持っていました。

奈良時代の後半に上総国分尼寺が最も整備された時の姿で、国府に近い見晴らしの良い台地に建てられ、
当時は人々の多くが竪穴式住居に住んでいた時代です。





国分尼寺の尼僧の定員は10人ですが、上総国分尼寺では奈良時代の後半には20人に増やされ、
 尼僧一人に付き近親の童子や婦女が一人ずつ仕えていました。



花苑(かえん)  四季の花が咲いていた 南大門(なんだいもん) 瓦葺の一番格式の高い門
普段は使用していない
中門(ちゅうもん)
金堂院(こんどういん) 金堂と中門を繋ぐ回廊で
構成する部分
仏地 内庭部分で、寺院内で
一番神聖な所
灯篭(とうろう) 金箔を貼った灯りとり
回廊(かいろう) 金堂院と中門を繋ぐ
渡り廊下
金堂(こんどう) 本尊の釈迦如来像を祭ってあり、仏のための聖域で、
特別の行事以外は使用しない
鐘楼(しょうろう) 鐘の音で起床し、近隣に
尼寺の存在を浸透させた
経楼(きょうろう) お経を保管しておく所 西門(にしもん) 普段の出入り口
講堂(こうどう) お経を読む所 軒廊(こんろう) 渡り廊下 大坊(たいぼう) 共同生活の場所
小子坊(しょうしぼう) 共同生活の場所 築地塀(ついじべい) 尼寺全体が塀に
囲まれていた




湯屋(ゆや) 蒸し風呂 大炊屋(おおいや) 食事を作る炊事場
政所院(まんどころいん) 役員の尼僧が事務をとる寺院経営の中枢部
寺の役所に当たる所
薗院(えんいん) 尼寺内で消費する野菜・果物・薬草などを栽培する畑
燈明をとるアブラナの栽培もしていた
造寺司(ぞうじし) 尼寺の造営を担当をした国府の出先機関の造寺司の住まい




修理院(すりいん) 建物や仏像などを
修理する所
賎院(せんいん) 寺内の掃除や力仕事をする
寺奴婢(てらぬひ)の住まい
井戸(いど)
客坊(きゃくぼう) 遠方からの来た尼僧の
宿泊する所
工房(こうぼう) 工房はいくつかあった
倉院(そういん) 尼寺内の宝物(ほうもつ)や儀式の道具などをしまっておく所。周りに築地塀(ついじべい)をめぐらしている
双倉(ならびくら) 高床式の大事なものを
保管する所
校倉(あぜくら)


国分寺・国分尼寺の衰退

このような国分寺も、平安時代の中ごろ(11世紀)には、急速に衰退していきました。
これは律令国家の力が弱まるとともに、経営が困難になったことが考えられます。
上総国分寺、尼寺も発掘調査により、11世紀には衰退していたことがわかっています。




平成5年から回廊の復元事業を開始
市原市では、平成2年から史跡の整備を始め、5年に中門を復元し展示館を公開しました。
その後、回廊の復元工事をすることになり、設計や材料の調達・加工が行われ、7年から8年にかけて遺構盛土の上に復元回廊を建設しました。
復元工事は、奈良時代の建築様式を再現し、また古代の建築技法を用いて建設しました。

(復元された回廊の50センチ下には、遺跡が眠っていて忠実に再現されました)

平成5年度から文化庁の「地域中核史跡等整備特別事業」として、回廊の復元事業を開始。
平成5年度から6年度にかけて設計や材料の調達、加工が行われ、7年度から8年度にかけて遺構盛土の上に復元回廊を建設しました。
今回の工事は、奈良時代の建築様式を再現し、また古代の建築技法を用いて建設しました。




復元された中門と回廊の全体・・・北方向より
建物の下50センチ下に遺跡がある
連子窓(れんじまど)   復元された古代の窓は緑色・・・緑青(ろくしょう)が塗られている
梁や柱の赤・・・弁柄(べんがら)
 
壁の白・・・胡粉(こふん)という、貝を粉にしたものが塗られている
廊下の部分・・・(せん)と呼ばれる瓦と同様の材質のものが敷かれている
中門と回廊の外観・・・南東方向より



こうして聖武天皇によって全国に作られた国分寺・国分尼寺は奈良時代以降約300年間
仏教の地方拠点として続きましたがその後は衰退した。